「不登校の小中学生が30万人を超えた」
そんなニュースを、ここ数年で何度も目にするようになりました。統計の数字だけを見れば、「不登校は特別なことではない」と語られる時代になったのかもしれません。しかし、いざ当事者としてその現実に直面すると、親の胸に湧き上がる感情は、そうした言葉だけでは整理しきれないものです。
朝、カーテンを開けても布団から出てこないわが子を前に、声をかけるべきか、そっとしておくべきか迷う時間。
「学校に行く」ことすら当たり前でなくなった時代で、今を生きる子どもたちにどう接するべきか、親としても逡巡してしまう。
「今日は行けそう?」
と口にした自分の声に、励ましたい気持ちと、これ以上追い詰めたくないという思いが同時に滲んでいることに気づきます。そして夜、家事が終わって部屋が静かになると、ふと頭をよぎるのです。このままで、本当に大丈夫なのだろうか、と。
今回取材した伊藤園子さん(仮名・23歳)も、かつて「学校に行けない子」でした。公立小中学校を経て、都内屈指の進学校・都立日比谷高校に合格したものの、全く馴染めないまま高校1年の夏に中退。その後、不登校、非行、フリーター生活、高卒認定試験の取得、二浪という遠回りを重ねた末に、東京大学へ進学しています。
私はこの経歴を「逆転合格の成功談」としてお伝えしたいわけではありません。このケースが示しているのは、「どうやって東大に行ったか」ではなく、あの苦しい時期に、「親が何をしなかったのか」。かつて不登校だったからこそ聞ける「不登校児童のホンネ」をお伝えします。

「教室で本を読ませてほしかった」
「小さいころから文字が大好きで、生家には私専用の”お気に入り本棚”がありました。『だるまちゃんとてんぐちゃん』など、いくつか気に入った本ばかりを繰り返し読んでいましたし、それだけにとどまらず、母の買ってきたカレールーのパッケージ裏に書いてあるレシピなども見逃さず全て読みつくしていました。もちろん意味は分かっていませんが、色々な文字が並んでいること自体が面白かったんです」
伊藤さんは、幼い頃から本が好きな子どもでした。
「幼稚園のころ、絵本の“お話”というより、ページに並んだ文字や絵そのものに惹かれていた気がします」と振り返ります。お気に入りの本は何度も何度も読み返し、新しい刺激を次々に与えられるよりも、同じ世界に繰り返し浸るほうが心が落ち着いたそうです。
小学校に入ってからも、その傾向は変わりませんでした。昼休みや中休みには校庭に出て遊ぶより、図書室で静かに本を読む時間を好み、そこが彼女にとっての居場所になっていました。しかし学校には、「休み時間は外で遊ぶもの」「みんなと同じ行動をとるもの」という暗黙のルールがあります。
「先生に『外に出なさい』と言われるのが、正直つらかった。私は外で遊ぶことが嫌いでしたし、友達も多くなくて、みんなでワイワイするのが苦手だったんです。運動神経も悪く、校庭に私の居場所はありませんでした。休み時間の間は、何も悪いことをしていないのに、隠れるようにしてトイレで時間を潰していました」
友達がいなかったわけではありません。ポケモンや漫画の話は楽しく、クラスで孤立していたわけでもない。
ただ、放課後に誰かと遊ぶより、一人で本を読むほうが楽だったのです。大勢でわいわいするより、頭の中で考え事をしている時間のほうが安心できた。
その感覚は、決して珍しいものではありません。
それでも、集団行動や外遊びを前提とした学校文化の中では、こうした子どもは「少し変わった子」「協調性がない子」と見られやすくなります。伊藤さん自身も、「今思えば、問題があったのは自分じゃなくて、学校という環境との相性だった」と語っています。

やがて、もともと体の強くなかった伊藤さんは、貧血など体調不良を理由に学校を休んだり遅刻・早退したりするようになっていきます。もともと活発でも外向的でもない上に、学校が好きでもなかった彼女にとって、徐々に「休む」ことが特別でなくなっていきました。
幸いにも成績は非常によく、学習進度の遅れを心配して入った進学塾でも「ぜひ中学受験を検討されたい。偏差値60程度の学校なら十分目指せます」と塾から打診されるほどでした。
しかし、特別に受験すべき理由もなかった彼女は、そのまま地元の公立中学校に進学。
そこには、彼女にとっての「第一の試練」が待ち受けていました。
檄が産み出したプレッシャー
中学進学後、当時流行っていたバスケットボールを題材にした漫画『黒子のバスケ』に影響された彼女は、運動が苦手にもかかわらずバスケットボール部に入部します。運動経験はほとんどなかったものの、当時から身長が高く、170cm近い長身を活かしての活躍が見込まれ、センターに配属されました。
センターはゴール下でリバウンドしたボールを相手選手と奪い合う過酷なポジション。身長以上に体力や気迫で負けないことが求められ、試合のカギを握る重要な仕事を任されたこともあり、最初の半年間はなんとか食らいつこうと頑張ったそう。
ですが、中学1年生の秋ごろから、徐々に体調不良を理由に部活から足が遠のいていきます。高学年の先輩が引退し、練習が厳しくなり、センターを担う自分への期待が高まっていくことに耐えられませんでした。
「私くらい背が高い選手って、なかなかいませんから、相手のセンターは大体自分よりも背が低いわけですよね。それでも、私はリバウンドの奪い合いで負けてしまう。技術以前に、気迫や根性で委縮していたからかもしれません。
ただ、顧問の先生からは『伊藤!!どうして背が低い奴に負けるんだ!!』と激が飛んでくるわけですが、私には罵声にしか聞こえなかったんです。実際、私が負けると一気に相手のターンに傾くわけですから、責任が本当に重くて、チームメイトには申し訳ない気持ちでいっぱいでした」

大きな挫折を経験せず生きてきた彼女にとって、バスケ部での挫折は「自分って、ダメなんだ」と思わせるに十分なトラウマとなりました。朝になると吐き気がする。学校に行こうとすると身体が固まって動かない。徐々に体調を崩す日が増えていきます。中学2年の夏頃からは登校できない日が続き、やがて本格的な不登校状態になりました。
これは、意志の弱さや甘えではありません。心と身体が、限界を超えた環境から自分を守るための防衛反応だったと考えることもできます。
親が「学校に行け」と言わなかった理由
不登校が始まったとき、親御さんは誰でも戸惑います。伊藤さんの家庭も同じで、病院に行き、カウンセリングも受けました。しかし、ある時期から親は「無理に登校させる」という選択を手放します。
「『学校行きなさい』とは言われなかったです。正直、それが一番助かりました。もちろん最初からではなく、紆余曲折あっての結論ですが、『最終的には塾に行ってちゃんと勉強しているなら、無理に学校に行かなくてもいいよ』って、そう言ってくれたんです」

当時を振り返って、「カウンセリングとか、病院とかは、正直ウザかった」と語りつつ、「でも、心配してくれているって分かったから、安心もできた」と今だから言える本音もあるそう。小中学生の間は、しっかりかかわりを持とうとしてくれたことが、何よりも安心の材料になりました。
高校受験を見据えた塾に入ってからも、相変わらず成績はトップクラスだった彼女に、ある日転機がやってきます。中学3年生の初めの面談で、塾長から提案された志望校は「都立日比谷高校」でした。毎年東大合格者を多数輩出する国内屈指の名門校でしたが、伊藤さんは快諾。
内申点が絶望的な状況でしたが、毎日6時間近く塾にこもって勉強し続け、最後は異例のS判定を取得。そのまま不登校から日比谷高校へ大逆転合格を決めます。
まさかのジャイアントキリングに対し、歓喜に打ち震える伊藤さん一家。ですが、ここからが、「本当の試練の時期」となったのです。
やらなかったからこそ、よかったこと
「今思い返すと本当に恥ずかしいんですけれど、高校デビューに失敗してしまったんです。
当時は本当に尖っている感じのビジュアルで、中学まで人と話そうとしてなかったから、相手の目を見て喋るのも難しかったですし、仮に話せても、私のついていけるオタトーク的な話題に着いてこられる人もあまりいなかった。見た目はめちゃくちゃ尖ってる上に、無口で不愛想でしたから、友達もできず、休み時間はずっと寝たふりで過ごしていました」
日比谷高校に入学した当初こそ「ここで人生を変えよう」と思っていた伊藤さんでしたが、髪染め禁止だったにもかかわらずインナーカラーを入れたり、真っ黒なネイルでキメてみたりと、少し勢い込んでしまった。クラスに馴染めず気まずい思いをする中で、高1の体育祭を欠席してしまったことが決定打となり、本格的に不登校に。
結局、高校1年生の夏休み明けに退学したそうですが、親としては、「さすがに何か言わなければ」と思う場面だったはずです。

それでも、このときも親は踏み込みませんでした。「将来どうするの?」「このままでいいの?」と問い詰めることを、あえてしなかった。
「元気づけられすぎるのも、きついんです。自分でも分かっているから」。伊藤さんの言葉からは、親の“沈黙”が、責めではなく逃げ場として機能していたことが伝わってきます。
ただし、決して無関心だったわけではありません。高校中退後、彼女は一時地元の不良少年とつるむようになったといいますが、その時には、しっかりと彼女の人生について問いなおすように、つながりを持とうとしてくれたそう。もちろん一時的には親子関係が悪化したわけですが、それでも今は親と良い距離感を保って付き合えています。
この時のアウトロー仲間との関わりは「学校ってクソだよね」と安直な世間への反抗心を持つ同世代の人間に初めて出会った衝撃から始まったものでした。
様々な”世間一般の価値観”を押し付けてくる人々の中で、彼女にとってはようやく出会えた「苦しみをわかりあえる人々」。夢中になるのも、無理はありません。
ですが、それは新しい好物を見つけて一時的に食べ続けるような一過性のショックであり、本質から分かり合っているわけではない。伊藤さん自身も、半年もしない間にこの事実に気が付き、徐々にこの集団からフェードアウトしました。
一方で、家族との関係性は、時を追うごとに修復され、今では一緒にテレビ番組を観ながらくつろげるほどになったそう。一時は口すら利かないようになりつつも、今では一緒に家族団らんの時間を過ごせるようになったのは、親に対する信頼があったからだといいます。
「当時はあまりわかっていませんでしたが、今から考えると、とにかく何かをするたびに、私の親は私のことを褒めてくれていました。しかも、あいまいな誰にでも当てはまるようなフレーズではなくて、『この作文のこの表現、面白いね』のように、私がやったことに対して、私をちゃんと見ていないと出せないような個別の表現で褒めてくれていたように感じます。
別に、誰かと比べてほしいわけでもなく、優れているからいいとか、そういう話でもない。ただ、私がやったことに対して、『この人は、私をしっかり見てくれているんだ』と安心させるような言葉のつながりが、私と家族とをつなぎとめていたのかもしれません」
親は感情的に寄り添きすぎず、突き放しもせず、家を「戻れる場所」として保ち続けました。何かをさせようとしないこと、何かを決めようとしないことは、無関心ではありません。それは、子どもが自分で動き出す余白を残すための、意識的な関わり方だったのです。
そして、その関わり方の肝こそが、「目の前の自分をちゃんと見てくれている」と伝わる言葉。それが、「自分は壊れていない」という感覚を、かろうじてつなぎ止めていたのです。

「このままじゃ、ダメだ」
「高校を辞めてしばらくは、フリーターとしてコンビニでアルバイトをしていました。冬のある日、仕事をしながら『私は、いったいいくつまで、こういう生活をしていくのだろう』と、むなしくなったんです。
それで、なんとなく浮かんできた選択肢が『大学に行こう』でした。なんだか将来がすごく不安で、空虚に感じられる中で、それらを一気に解決してくれるようなウルトラCがほしかった。そして、そのためには、東大に行けば、全部解決するんじゃないかって感じたんです」
親に言われたからではなく、自発的に湧いて出てきた「大学に行きたい」という願望。彼女にとっては”挫折”続きに思われた人生でしたが、「東京大学」のネームバリューはすべてをひっくり返せるワイルドカードのように見えました。
実際、幼少期からずっと本が好きだった彼女にとって、文学の話ができる友人の存在は、喉から手が出るほど渇望するもの。「知的な世界に行けば、きっと話が合う友人もできるはず」。そう信じての東大志望でもありました。
しかし、高校を退学して、非行に走るようになってから、ろくに親とは口をきいてすらいません。産みの親に「お母さん」と呼びかけることすら憚られる気まずさの中、勇気をふり絞って「私、大学に行きたい」とメッセージを送りました。
ここから2年の浪人期間を経て、彼女は東京大学に合格していくことになります。ほぼ丸一年会話の無い状況でしたが、両親は受験にあたって通う塾を調べてくれた上に、「お金については、何も心配しなくていい」とすら言ってくれたそうです。

もちろん、彼女にたぐいまれなる才能があったことは否定しません。普通は、不登校でロクに学校へ通えず、内申点が最悪な状況から日比谷高校に進学するなんて、不可能です。とはいえ、彼女の東大合格までの道のりを、「才能」の一言で片づけてはならないと私は感じます。
現在、伊藤さんはメディア系の就職を目指しつつ就職活動に勤しむ傍らで、個人としてライター業を営んでもいます。独特な感性を持つ文体と取材スタイルからは、明らかに非凡な才を感じさせる。
この才能は、もしかすれば、その輝きを世間に見せることのないままで、沈んでいったかもしれない。世に出たのは彼女自身の努力のおかげですが、そのためにはご両親など、周囲の大人の協力も不可欠でした。
そして、その協力とは、環境を用意することもさることながら、「いつでも頼りやすい信頼関係を構築すること」が非常に重要であったように見えます。家族同士の信頼関係があったからこそ、彼女は”挫折”から抜け出すことができました。
安直な価値観の押し付けではなく、一般大衆への矯正でもなく、ただ彼女の性質をあるがままに受け入れて、そのまま誉め言葉として出す。簡単なようですが、何よりも難しいこの行いが、信頼関係構築に役立つのでしょう。

今日、何もしなくていい
不登校や、ギフテッド傾向のある子を前にすると、親はどうしても「何かしなければ」と思ってしまいます。しかし、伊藤さんのケースが示しているのは、真逆のヒントです。
動かそうとしない。先を決めない。正解を押し付けない。その代わりに、「あなたを見ている」というサインだけを、静かに出し続けること。
学校に行けなくても、今は何も成果が見えなくても、その子の人生はまだ途中です。壊れてなんていません。
親ができる最善のことは、案外とても静かで、目立たないものです。でも、その静けさこそが、ある日、子どもが自分の足で立ち上がるための、確かな土台になります。
焦っているのは子どももきっと同じ。そして、人生経験が少ない分だけ、余裕がないのは子ども側でしょう。だからこそ、親が大人になって、辛抱強く声をかけ続け、つながりを途切れさせないようにすることが、何よりも子どものためになるのかもしれません。




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