東京大学理科三類や京都大学医学部の合格者数では圧倒的ナンバー1を維持し、国際科学オリンピック代表や研究者、実業家、文化人などを数多く輩出してきた灘中学校・高等学校。ノーベル化学賞受賞者の野依良治もその卒業生として知られる。しばしば「日本一の高校」とされ、そのブランド力は圧倒的だ。

関西圏における「灘」という名前の存在感は特に大きい。
関西の中学受験市場では長らく頂点として君臨し、大阪京都はもちろん、奈良、滋賀、岡山、広島、名古屋からも通学者がいる。その人気は計り知れない。

そんな灘校は兵庫県神戸市東灘区に位置するが、ここで一つの疑問が浮かぶ。

なぜ、大阪や京都でなく神戸なのか?

思えば不思議な話である。関西最大の都市は大阪だ。人口は京都や神戸の2倍近くに及び、経済規模を見ても他を超越している。また、京都は古くから学術・文化の中心地であり、京都大学をはじめ、立命館大学や同志社大学など有力大学が集積する「学都」である。

であれば、「日本一の高校」は大阪か京都に誕生しそうなものである。

しかし実際には、灘を生んだのは神戸だった。これはなぜなのだろうか。

灘校の成立と発展の背景には、神戸という都市が持っていた独特の社会構造、戦前のエリート文化、そして戦後教育改革による制度変化が複雑に絡み合っていたと考えられる。

「外向的都市・神戸」の功罪


近代以降の神戸は、日本を代表する国際港湾都市として発展してきた。開港以後は外国人居留地が形成され、海外の情報・文化・資本が流入する窓口となった。
貿易商社、海運会社、銀行などが集積し、神戸は国内でも特に国際色の強い都市として成長していく。

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その過程で、阪神間、とりわけ住吉、御影、芦屋といった地域には、財界人や実業家、文化人らによる独特の上流階層文化が形成された。灘校が立地する東灘地域もまた、灘五郷の酒造家をはじめとする有力実業家層の居住地に近接していた。こうした層は一般に教育熱心であり、子弟教育への投資を惜しまなかった。

さらに重要なのが、戦前の高等教育制度との関係である。

大阪では「旧制浪速高校→大阪帝大」、京都では「旧制第三高校→京都帝大」というエリート進学ルートが存在していた。一方、神戸には旧制高等商業学校は置かれたものの旧制高校は存在せず、帝国大学も置かれなかった。

灘校は昔から「名門」だったか?

なるほど、戦前からの歴史的背景を見ると、確かに全国に名を轟かせるような学校が生まれそうな土壌は神戸にあったことが理解できる。では、そのような土壌の中で灘校は戦前から人気を博していたのか、というとそうではない。

灘校は1927年に菊正宗の嘉納家、白鶴の嘉納家、櫻正宗の山邑家など巨大酒造資本により設立された。「灘」という名前自体が、神戸〜西宮沿岸の酒造地帯「灘五郷」に由来する。名門の香りがする一方で、当時の灘校のイメージは「スポーツに強い私立校」というものだったようである。

学校HPでも、「(中略)全国的なレベルにあったスポーツに加えて、学業でも昭和40年代には全国屈指の進学校へと躍進を遂げてきました。」(https://www.nada.ac.jp/enkaku.html)とある。神戸の特殊性の話はどこへ行ったのか、という声が聞こえてきそうだが、ある学校の話を語る必要がある。

その学校とは、「兵庫県立第一神戸中学校」。現在の兵庫県立神戸高校だ。

神戸一中は戦前日本を代表する旧制中学校の一つだった。東京一中(現在の日比谷高校)、愛知一中(現在の旭丘高校)と並んで「一中御三家」と称されることもあった。

特に注目すべきは、旧制一高(現在の東京大学前期過程)への圧倒的な進学実績である。
合格者数ランキングでは、東京のナンバースクール旧制中学校や有力国私立校が名を連ねる中で異常に高い順位につけている。

小林哲夫『改訂版 東大合格高校盛衰史』(光文社新書、2023年)の「「旧制一高」の旧制中学合格者ランキング(1934年〜1942年累計)」を参照すると、1位が東京府立第一中、2位が東京府立第四中、3位が東京府立第五中ときて、4位に第一神戸中が来る。

背景には、まず先に述べた神戸特有の土壌があったと考えられる。そしてOBの存在も大きいだろう。
第一神戸中を卒業し一高に進んだ先輩が多くいれば、彼らに憧れ自分も東京に行きたいと思う学生は芋づる式に増えることは想像できる。
受験の情報も入手しやすかったのではないだろうか。

こうした背景の上で、第一神戸中は「東京を目指す名門校」として発展していったのである。

しかし、戦後の教育改革が、この構造を大きく変化させる。

ゲームチェンジャーとなった戦後教育改革

戦後、6・3・3・4制が導入され、旧制中学校は新制高校に生まれ変わった。GHQは戦前のエリート養成システムを嫌い、兵庫県では新制高校に小学区制が導入された。小学区制とは、今の一般的な公立小中学校を思い浮かべるとわかりやすい。その高校に通えるのはその高校の近くに住んでいる人だけ、という制度だ。

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これによって、旧制神戸一中に通っていた生徒のうち多くは新制神戸高校に通えなくなった。そこで生徒たちの受け皿となったのが新制灘高校であった。元々第一神戸中に通っていた生徒は無試験で灘高校に編入できたという( https://note.com/kobedx/n/n3dc56e979837 神戸新聞公式noteより)。

通えなくなった生徒のほか、積極的に灘高校を選ぶ生徒もいた。新制神戸高校では従来の男子校から共学化が行われたのに対し、灘高校は男子校を維持したからだ。生徒のほか、教員の移動もあったという。

そして1950年代後半〜1960年代に入り、灘校は急速に「進学校」として認知されるようになる。神戸一中にいた優秀層を根こそぎ奪ったということである。全国的に公立高校では教育の平準化が行われたこともあり、私立校として追い風でもあった。灘の人気をさらに後押しした。現在の「灘」の原型は、この時期に形作られていったのである。

雪だるま式に拡大した「灘ブランド」

その後の灘校の躍進は驚異的だった。

1960年前後にはすでに東京大学合格者数ランキングで全国上位に食い込み、1968年にはついに東京都立日比谷高等学校を上回り、東大合格者数全国首位に到達する。当時の受験界において、これは象徴的な出来事だった。長らく「東大進学の王者」として君臨してきた日比谷を、関西の私学が追い抜いたのである。

さらに1964年の東海道新幹線開業も、灘の全国化を後押しした。東京〜大阪間の移動時間短縮によって、関西の学校情報が首都圏にも広がりやすくなり、「灘」という名前は全国区のブランドへと変化していく。

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甲陽学院

5

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6

8

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18

26

21

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姫路西

4

6

4

6

6

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8

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13

11

淳心学院

0

1

1

0

2

7

13

10

10

5

神戸

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11

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13

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10

六甲学院

1

1

1

4

2

6

7

7

5

3

長田

2

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3

4

3

3

8

8

5

4

加古川東

4

2

2

4

5

5

7

11

15

5

※「進学校データ名鑑」(https://www.shindeme.com/entry/tk/hyogo/ 2026年6月24日閲覧)より作成。新幹線開通後の1965年より、主要な兵庫県の高校からの東大合格者が有意に増加している。1968年、1970年は東大合格者数で灘が全国1位であった。

東大合格者数が増えると、知名度は一気に上がる。その結果を見て全国各地から優秀な生徒が集まるようになる。
灘校はこうしたプラスのサイクルに入っていった。

地理と歴史が折り重なった奇跡の学校

優秀な生徒が自然に集まるようになれば、学校として厳しい受験指導を行う必要はなくなる。
結果として灘校はどんどん自由でのびのびとした校風に転換していったのだろう。

京都奈良の仏教校に見られるような学校による指導や大阪の商人的な気風とも違う、灘ならではの自由放任の校風は優秀層からの支持を受けた。こうして灘校は、「進学実績が高い学校」という段階を超え、一種の文化的ブランドとして定着していったのである。

半世紀以上にわたって、関西の中学受験市場は灘を中心に回ってきた。それに与したのは歴史と地理を横断した構造的な要因が大きい。「灘一強」の時代はいつまで続くのか、今後も目が離せない。