学校の先生たちは、知られざる“自腹”という負担を日々強いられている――。
東洋館出版社から刊行された書籍『教師の自腹』によると、なんと75%以上の教師が「この1年間で自腹をしたことがある」と回答しているといいます。
この数字は、単なる例外的な事例ではなく、日常の中に組み込まれてしまっている“当たり前”の姿を示しています。では、なぜ教師たちは自腹を切るのか? どこに線引きをすればいいのか? その背景にある制度的・文化的な要因について考えてみたいと思います。
「積極的」「消極的」「強迫的」――三種の自腹
同書では、教師の自腹を次の三種類に分類しています。
- 積極的自腹:より良い授業のため、意欲的に支出するケース
- 消極的自腹:必要に迫られて仕方なく支出するケース
- 強迫的自腹:納得できないが、圧力により仕方なく支出するケース
たとえば、学級通信を配るための印刷用紙やカラーインク、装飾用の画用紙、特別な教材など、授業を「よりよくしたい」という気持ちで買い足すのは「積極的自腹」に該当すると言えると思います。
一方で、学校にある備品が不足していたり、備品を申請するには数ヶ月かかるために“仕方なく”先生自身が用意する場合もあります。これが「消極的自腹」ですね。
さらに厄介なのが「強迫的自腹」です。「他の先生も買っているから」「そうしないと保護者に悪く思われるから」という理由で、心の中では疑問を抱えつつも購入せざるを得ないーーーそんなケースも少なくありません。
実は「学校にお金がない」わけではない?
自腹というと、「学校にお金がないから仕方ない」と思われがちです。しかし、現実はもっと複雑です。確かに、公立高校では備品を一つ購入するにも申請から決裁、発注までに1ヶ月以上かかることもあるため、即時対応が難しいから申請しにくい、なんて場面は多くあるといいます。ですがこれは、学校に限らず、多くの公務員職場に共通する課題です。
私立高校の先生であっても、都内の中高一貫校の先生であっても、申請をしない人が多いのです。予算に余裕がある学校でも、先生たちがあえて経費申請せず、教育にかかるお金の多くを自腹として購入しているケースが多く見られます。
なぜそんなことが起こるのでしょうか?これにはいくつかの要因が考えられます。
「前例」が重くのしかかる職場
実際の現場では、経費申請をする際に「これを認めてしまうと、今後も同じように認めなければならなくなるのではないか」といった、“前例づくり”への慎重さが根深くあります。
たとえば、ある先生が授業用に1万円の備品を申請して通ったとします。すると、翌年以降、他の先生からも同様の申請が増え、結果的に予算を圧迫するかもしれない。こうした予測や圧力のなかで、「空気を読んで自腹」という構造が形成されていきます。
特に若手の先生や非正規教員ほど、「波風を立てないように自分で何とかしよう」という心理が働きがちです。
学校における「グレーゾーン」の多さ
そもそも、学校という場所には曖昧な“グレーゾーン”が非常に多く存在します。
たとえば、「学級文庫」として参考書や絵本を教室に置くことがあります。例えば、高校3年生のクラスの担任になった先生が、学級文庫として過去問を買って、それを置くのは経費申請してもいいものなのか?
もし過去問を買うとして、どの大学の過去問なら買っていい、という基準を設けるのは難しいですね。東大志望の多いクラスだったとしたら東大の過去問を買ってもいいのかもしれません。が、1人しか志望していない京大の過去問は経費申請できないのでしょうか?もし学校側が認めるとしたら、どれくらいまで買っていいのでしょうか?
もっと言えば、過去に先生が買った本を流用して学級文庫に置く場合、その本が学校の所有物なのか、先生個人の所有物なのか、はっきりしないまま置かれていることも少なくありません。
このように、学校現場においては「グレーゾーン」が多いですよね。
また、先生が授業で使う赤ペンを自費で買った場合、それは職務上の必要備品なのか、それとも個人使用とみなすべきなのか。その線引きが曖昧だからこそ、あらゆるものが「私費でなんとなく買っている」状態が生まれてしまうのです。
「経費申請しない文化」が根づいている
こうした背景には、「経費を使うことに対する抵抗感」があると考えられます。
古くは、部活動の大会遠征後に、先生が自腹で生徒にラーメンを奢るといった習慣がありました。この記事を読んでいる人が40代以上の方であれば、そんな経験がある人もいるかもしれません。
また、40代以上の先生の中には、自分で車を買うときに、「部活で生徒を送ることがあるから」という理由で大きめの車を買った、という人も少なくありません。そういう時代が明確に存在していたわけです(もちろんこの送迎において、ガソリン代の申請や車の使用料を学校に請求することはなかったと言います)。
もちろん、現在ではそのような行為は「好ましくない」とされていますが、教師が自腹を切って“生徒のために尽くす”という美徳の文化が、長く残ってきたことは否定できません。つまり、「申請していいものなのに、なんとなく申請しない」ことが常態化しているのです。
自腹の「限界」と向き合うときが来ている?
とはいえ、教師の自腹が「美談」として消費されるのは、もう限界にきているのではないでしょうか。令和の時代において、この「教師の自腹」は問題視されるようになっています。
先生方の多忙や長時間労働が社会問題化する中で、その上に“金銭的負担”まで個人が背負い続けるのは、構造的な歪みと言わざるをえません。また、学校によっては支出にばらつきがあり、「持ち出しの多い先生」と「全く自腹をしない先生」の間で不公平感が生まれていることも見過ごせません。
さらに、若手教員の経済的基盤は決して盤石とは言えません。給与も上がらず、共働きでギリギリの生活をしている中、数万円単位の備品購入をしているケースもあります。こうした負担が、教師という職業の魅力を損ねている可能性すらあるのです。
解決策はあるのか?
では、どうすればよいのでしょうか。根本的には、「学校現場における経費の運用と透明化」が求められると考えられます。
具体的には、
- 自腹を強いる空気や文化を見直す
- できる限り、経費の使用ルールを明文化し、グレーゾーンを減らす
- 小額でも申請しやすい仕組みをつくる
- 教員間で備品共有のルールを整備する
などですね。一人ひとりの教員の善意に依存するのではなく、制度として「先生の負担を最小限にする仕組み」を整えることが、今後の教育改革の鍵となるはずです。
教師の“想い”を制度が支えられる社会へ
教師の自腹には、「もっと良い授業をしたい」「生徒にとってプラスになるなら」という想いが込められています。その想いは決して否定されるべきものではありません。
しかし、その想いを“構造的に支える”のが制度の役割です。
今、学校に必要なのは、先生の献身に甘えるのではなく、それを尊重し、きちんと後押しする環境です。自腹を当然とせず、申請をしやすく、正しく報われる。そんな教育現場を、私たち全体でつくっていく必要があるのではないでしょうか。





.png&w=3840&q=75)

.png&w=3840&q=75)
.png&w=3840&q=75)





.png&w=828&q=75)
.png&w=828&q=75)
.png&w=828&q=75)
