「インドの受験戦争は、今や世界で一番加熱化している」――そう語るのは、元ベネッセインド取締役の松本陽氏です。インドトップ大学のIIT(インド工科大)の卒業生たちは平均初任給が約2000万円を記録し、インドの一般的な大学卒の初任給(約50万円)とは比較にならない水準となっています。
一方でインドの高校生の間では、受験の失敗や成績の不振によって自殺してしまうケースが非常に多く、2021年には13000人以上の学生が自殺したと報告されています。一体インドでは今、何が起こっているのでしょうか。今回は、インドの「ダミースクール」について松本氏に解説していただきました。
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ダミースクール
みなさんは、インドにある「ダミースクール」という施設を知っていますか?これは、インドの北部ラジャスタン州の地方都市コタにある施設です。
コタは、かつて肥料工場で栄えた人口100万人ほどの普通の工業都市でした。しかし今、この街を歩くと、そこかしこに「インド工科大合格保証」「医学部合格率90%」といった巨大な広告板が林立し、朝早くから夜遅くまで、制服姿の若者たちが忙しなく行き交う姿が見られます。コタは今では「受験の聖地」として知られており、街には1990年代前半から教育産業が栄え、多数の予備校と学生寮によって年間数千億円規模の教育産業が形成されています。コタの小さな私塾がインド工科大への合格者を出したことが評判となり、受験生が殺到したことで、塾・予備校が参入し、寮も次々に建てられたという経緯です。
「受験の聖地」「予備校の街」という呼び名の街があるというのは、日本人の感覚からするとちょっと信じられませんよね。でも、コタには、もっと信じられないものがあります。それが、先ほどお話しした「ダミースクール」です。これは簡単に言うと「昼間も塾で勉強するために、学校に行かなくても出席したことにしてくれるペーパースクール」です。
まず、私がここを訪れた時の話をさせてください。一見すると普通の学校で、校門には立派な看板が掲げられ、教室や職員室もあります。しかし、平日の午前中にも関わらず、校内はひっそりとしていました。
「生徒たちは今、どこにいるんですか?」
この質問に対する学校関係者の答えは衝撃的でした。
「みんな予備校で勉強していますよ。ここに来るのは、試験の時だけです」
15万人の子供が通う「ダミースクール」
もう少し詳しくお話ししましょう。コタの人口の1割・15万人程度の子どもたちが、親元を離れて暮らしています。子どもたちは朝から晩までひたすら受験勉強を行うことになります。このとき、完全に本末転倒ではあるのですが、受験勉強が忙し過ぎて学校に通っている暇がなくなるため、学校に通っている「体」を作り、ただ生徒の籍を置くだけの役割を果たすだけの「ダミースクール」に所属するよう勧められることがあるのです。
通常の学校と違い、ダミースクールではほとんどの学業やカリキュラムが形式的で、実際の授業や学びの場はほとんど提供されません。その代わりに、生徒は外部の塾・予備校に通い、そこで大学入試のための集中トレーニングを受けます。そこでは、IIT-JEE(インド工科大学の入試)やNEET(全国医学入試)のような非常に難関の試験を対象に、専用のカリキュラムや模擬試験が提供されています。
ここに通う生徒は、公式には学生として登録されているものの、ほとんどが実際の授業に参加せず、塾・予備校での学習に専念しています。学校側は、必要最低限の出席や試験を形式的に行うのみで、生徒に学歴や卒業証明書を発行します。要するに、学校に代わりにその隣の塾で勉強できて、授業にも出たことになって卒業もできるという、まさに「偽の学校」なわけです。
「ダミースクール」なんて、日本ではまず聞いたことがないと思います。学校による単位のごまかしの不祥事であればそういったニュースもありますが、それとは比べものにならない規模であると私は捉えています。私も、これまでのキャリアの中で、世界の教育業界を色々と見てきましたが、私の知る限り、おそらくインドだけで発生している現象ではないかと考えています。日本でも塾や予備校が学校教育を補完する役割を果たしていますが、「ダミースクール」のような極端な例は、少なくとも私は聞いたことがありません。
「インドの法律では大丈夫なの?」と思う人もいるかもしれません。自分もそこが気になったので調べてみたのですが、答えは「倫理的な問題はさておき、法律的には満たしている」ようです。インド人の友人何人かにも聞いてみましたが、彼らの回答はそれも同じで、「政府も黙認しているからね」とのこと。問題だとはわかっているけれど、使う人が後を経たない、いわゆるグレーゾーンとして機能しているのです。
インドで暮らしていて心底驚かされるのが、このシステムが、公の場で適用していることです。インドで塾の入会相談に赴くと、塾の先生から「うちはダミースクールも持っていますが、使いますか、どうしますか?」と軽く聞かれます。
ダミースクールに通っている学生の人数については、ダミースクール自体が法的にグレーな組織なので、公的なデータは存在しません。ただし、コタだけでも毎年15万人以上の生徒がエンジニアリングや医学の試験対策に特化した勉強をしていると言われていて、その生徒の大半はダミースクールを利用している可能性が高いです。また、コタ以外にも何ヶ所かダミースクールが存在するそうで、デリー・バンガロール・ハイデラバードなどの大都市でも盛んになっているのだとか。インド全土で見ると20数万人の生徒がダミースクールに登録していると推定されています。インドは5億人の子供がいるわけですから、全体の1%にも満たない数ではあるのですが、それにしたってとんでもない数だな、と思ってしまいますよね。
かなり高級なダミースクール
値段は高級なところだと年間数十万円で、それに加えて寮の費用や食事代がかかるため、インド人の中でも、誰でもアクセスできるサービスではなく、限られた人しか行けないような方法です。
● ダミースクール登録料:年間30-50万円
● 塾・予備校の授業料:年間50-100万円
● 寮費・食費:年間30-50万円
これらを合計して、年間100〜200万円程度が必要となります。
インドの一般的な世帯年収が約30万円ですから、その数倍に相当する金額です。にもかかわらず、多くの家族がこの費用を工面してでも、子どもをダミースクールに送り出すのです。
ダミースクールが使われる背景には、インドの大きな教育格差があります。都心部と地方都市・あるいは公立校と私立校の間には、設備の充実度や教員の質、提供されるプログラムの内容など、さまざまな面で違いが見られます。この格差のため、自分の通う学校の授業だけでは難関大学の入試に太刀打ちできないと考えた多くの生徒が予備校に通い、受験テクニックの徹底指導や大量の模擬試験を通じて、合格に必要なスキルを磨いていくのです。学校に通わずダミースクールに籍を置いて、ひたすら塾で受験勉強だけに向き合ってきた生徒たちは、勉強の面白さではなくテクニックだけを学んでいるわけで、その精神的なストレスは、想像を以てあまりあります。
しかし、ここまで苛烈な受験戦争を勝ち取った先にあるのは、確かな栄光です。次回は、受験戦争を勝ち抜いた先に待っているのがどういった人生なのかについて、お話ししたいと思います。




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