「全然勉強してなかった。そもそもやる気がなかった」 

 中学時代の学習状況をこう振り返るのは、未来図編集長で、東大生作家でもある西岡壱誠さん。

 当時の成績表がこれだ。

 英語のテストで3点という衝撃的な成績を取り、学校の成績表は赤点だらけだった彼が、なぜ東大を目指したのか。

 その転機となったのは、一人の音楽教師の「お前、今のままで大人になっていいのか」という問いかけだった。

 2年間の浪人生活を経て東大に合格し、現在は教育格差を縮める活動に情熱を注いでいる。2月には未来図編集長にも就任し、自身は経験のない推薦入試の情報発信に力を注いでいる。

 「限界は自分で決めるものではない」という彼の人生哲学は、どのように形作られてきたのか。勉強嫌いだった少年が「教育者」として歩み始めるまでの軌跡に迫る。

幼少期の家庭環境と性格

 西岡壱誠さんは一人っ子として育ち、母親と過ごす時間が多かった。父親は仕事の都合で全国各地を単身赴任していたため、家庭ではあまり顔を合わせることがなかったという。

 「母親で一人っ子で母親と一緒で、父親が単身赴任でって感じですね。だから母親といることが多かった」と西岡さんは語る。

 幼少期の性格については「そんなに明るいタイプではなかったですね。すごく暗いタイプでした」と振り返る西岡さん。意外なことに、後の活躍からは想像しにくい内向的な少年だったことがうかがえる。

 幼少期の西岡さんは、自分の内面に向き合うことが多く、友達と外で元気に遊ぶというよりは、家の中で過ごすことを好んでいた。人と積極的に関わるというより、一人で何かに取り組むことが多かったようだ。

 そしてそんな引っ込み思案な性格からか、友達は少なく、いじめられることも多かったとか。

 「小学校からいじめられっ子だったので、あまり友達が多い方ではなかったですね」

 教科書ゴミ箱に捨てられたり、 殴られたり、コンパスの針で手を刺されたりと、かなり辛いイジメを受けていた時期もあったとのこと。そんな彼は、なぜ東大を目指すようになったのだろうか。

中学・高校時代の学業状況

 現在、教育関連の事業で成功を収めている西岡さんだが、中学時代の学業成績は決して芳しいものではなかった。それどころか、学校の成績表は赤点だらけだったという。

 当時の中学受験での偏差値は50以下だった宝仙学園に入学した西岡さん。当然、その学校からは過去の東大合格者はゼロであり、周りには東大志望どころか、国公立志望もほとんどいなかったそうだ。

 そんな学校の中でも、最下位に近いの成績だったそうだ。「中学校・高校のときも、成績がすごい悪かった」と西岡さんは振り返る。特に英語では「テストで3点」という衝撃的な点数を取ったこともある。しかもこれは一度や二度の出来事ではなく、常態化していたという。当然、特別進学クラスにも入れず、高校3年間ずっと私立文系を目指すクラスで勉強していたそうだ。

 そもそも周りの環境としても全然真剣に勉強していなかったためか、それに流され、勉強に関して真面目には取り組まなかったそうである。「教科書を開くことすら面倒でした。単語を覚えるのも文法を理解するのも、すべての学習活動が苦痛でした」と当時を振り返る西岡さん。

 そんな状態が中学校時代を通じて続き、高校に進学しても当初はその姿勢は変わらなかったそうだ。

転機となった音楽教師とのエピソード

 勉強に対して完全に無気力だった西岡さんの人生を変えたのは、ある音楽教師の一言だった。

 高校2年生のある日の放課後、音楽教師が西岡さんに対して、「お前、今のままで大人になっていいのか」と突然問いかけてきたのだという。

 このまま大人になっていいのか。今のまま、部活も勉強も何もかも不十分で、いじめられっ子のまま人生を終えるのか、と。そういう問いかけをしてきたのだそうだ。

 それに対しての西岡さんの返しは、「うん、そんなもんじゃないですか」だった。「別に、自分は才能もないし、やる気もないし、このまま生きて、死んでいくんじゃないですか?」と。

 それを聞いて、その先生はこう語り始めたのだそうだ。

 「お前は自分にできないことが多いと考えがちだ。人間は自分の限界を勝手に決めてしまう生き物だ。自分がここまでだろうなというラインを引いて、そこから先は行けないと思い込む。そのラインから一歩外に踏み出すことが極度に難しくなる」

 西岡さんははこのときの状況を今もはっきりと覚えているという。

 「人間は、『自分はここまでだ』と思うと、そこ以上にはいかない。それ以上の努力をしない。でも聞いてほしい。そのラインは幻想だ。誰かが決めたものでも本当の限界でもない。ただの怖れが作り出した幻だ」

そして音楽教師は最後に、こう西岡さんの背中を押したという。

 「今の自分になれないと思うような、大きな目標を持って本気で頑張ってみるということをやってみてもいいんじゃないか」

 その言葉に心を動かされた西岡さんは、「何をしたらいいですか」と初めて真剣に尋ねた。教師は振り返り、「東大に行け」とシンプルに答えた。

 「音楽やスポーツは才能の差が出る。でも勉強は違う。才能の有無以上に、努力が結果を左右する。明確な目標と正しい努力があれば、誰でも大きく伸びる可能性がある」

 教師はさらに西岡さんの甘えを徹底的に打ち砕いた。

 「お前が本気で何かに挑戦したことがあるのか?本気で何かに取り組んで、限界まで努力して、それでもうまくいかなかったという経験が、お前の人生の中で何回あった?」

 この一瞬の会話が、西岡さんの人生の転機となった。教師の問いかけで初めて自分の可能性を信じ、大きな目標に向かって歩み始めるきっかけとなったのだ。

 西岡さんは穏やかな顔で、こう話す。

 「振り返ると、この言葉を愚直に信じた結果、こうなったんだとんだと思います」

現役時代の東大受験と失敗の経験

 音楽教師の助言を受け、初めて真剣に勉強に向き合った西岡さん。成績最下位から、スイッチを入れて1日12時間の勉強をするようになったそうである。しかし、それだけ勉強しても、現役では東大合格を果たせなかった。「もう一年頑張ろう」と思って1浪して受験に臨んだが、それでも全く成績が足りず、当然のように2回連続で東大に不合格になった。

 「1浪で落ちたときに、『ああ、これが人生の終わりだな』と思った」と当時の心境を語る西岡さん。実際、自殺も考えたそうである。その時の生々しい感情は、西岡さんの自伝的小説「それでも僕は東大に合格したかった」の中でも描かれている。

 東大を目指すまで、本気で努力したことがなかった西岡さんにとって、この失敗は単なる不合格以上の意味を持っていた。今までの人生を全て否定されたかのような感覚に陥って、「自分は本当にダメなんだな」「自分みたいなバカには、やっぱり東大なんて無理だったんだ」という思いが頭をよぎったという。

 しかし、挫折の経験は同時に彼に新たな視点をもたらした。「挑戦して失敗する」という経験をしたことで、初めて自分自身の限界と可能性について真剣に考える機会を得たのだ。

 音楽教師の言葉を思い出し、「限界は自分で決めるものではない」ということを実感する中で、西岡さんは次の挑戦への決意を固めていった。

2年間の浪人生活と東大合格まで

 西岡さんは諦めることなく、2回目の浪人生活に入った。「ラストチャンス」と自分に言い聞かせながら、経済的な理由もあって3浪はしないと決意していたという。

 この浪人期間は、西岡さんの人生において重要な意味を持つ。「少なくとも、2浪しなかったら僕はなんか自分の人生をこんなに見つめ直す時間はなかったと思います」と振り返る。この時期に彼は勉強だけでなく、自分自身と向き合う貴重な時間を得ることができたのだそうだ。

 「浪人中は勉強以外のことを考える時間もたくさんありました。自分が何をしたいのか、どういう人間になりたいのか、そういった根本的な問いに向き合う時間があったのは大きかった」と西岡さんは語る。

 一番変えたのは、「性格」だと語る。

 「2浪して、『自分の今までのやり方とかを全部捨てなきゃ、絶対に合格できない』と考えました。そこでやったのは、塾で頭がよかった友達や東大に合格した友達に、『申し訳ないし恥を忍んで言うんだけど、後生だからノート見せてくれない?』『勉強法を教えてくれない?』と聞きまくるということでした。今まで、他人に頼るなんて恥ずかしいし、自分のプライドが許さなかったです。でも、そんなこと言ってられない状況に追いやられて、50人くらいに頭を下げたんです。そうやって、性格を変えたからか、2浪で一気に成績が上がりました」

 性格の面から大きく変えるような努力が最終的に実り、西岡さんは東京大学への合格を果たした。2年間の努力の末についに掴んだ合格は、彼の人生観を大きく変えることになる。「諦めなければいつか道は開ける」という確信と、「正しい努力をすれば結果はついてくる」という自信を得たのだ。

 ちなみに、この時の「プライドを捨てて人に頼み込む」という勉強法は、後に「ドラゴン桜2」の中で大人気の「悪者」として描かれた藤井遼(鈴鹿央士)のエピソードで反映されているという。

 「今思い返してみると、自分が高校生になるまで感じていた、『どうせ自分には無理だ』という感覚は、間違ってはいなかったと思います。自分は1日12時間勉強しても、東大に2回不合格になるような人間だった。そこに間違いはなかったんです。でも、だからといって、手がないわけじゃなかった。」

 「頭を下げて人を頼って、自分の独りよがりの努力をやめてプライドを捨てて頑張れば、実は道は開けるかもしれない。限界は確かにあるけれど、それは自分一人で頑張っているからそこに限界が生まれるだけで、他の人に頼ってその限界を越えることは可能なのかもしれないと思うようになったんですよね。」

(最終的な成績表)

東京大学入学後、『ドラゴン桜』プロジェクトとの出会い

 東大入学後、西岡さんの人生を決定づける出会いが訪れる。それは漫画「ドラゴン桜」の続編プロジェクトだった。

 ドラゴン桜というのは、「偏差値が低いヤンキー高校から、1年かけて東大合格を目指す」という漫画で、2005年からモーニングで連載していた作品だった。

 西岡さんは、「ドラゴン桜」の編集担当だった佐渡島庸平さんから認められ、大学生の身の上でありながら、ドラゴン桜2の編集担当に抜擢されたのだという。

 元々、佐渡島氏は東大を卒業したばかりの新卒社会人として、「ドラゴン桜」という作品の編集になった人であった。なので、「ドラゴン桜」の作中に登場する勉強法等も、「東大時代に知り合った周りの友達がやっていたこと」「灘高校時代に東大受験をしたときに聞いた勉強法」を参考にして漫画家三田紀房氏に情報提供をすることができた。しかし、それから15年の月日が流れてしまい、佐渡島氏は「もう自分は、最近の受験事情はわからないな」と考えるようになったのだそうである。

 しかも、「ドラゴン桜2」という作品は、「1」を受け継ぎつつも、「新しい時代に合わせた勉強法を提示するもの」として作ることを目標にした作品だった。2020年入試改革に合わせ、このスマホが普及した時代の中での勉強法を描くものにしたい、という意向が漫画家三田紀房氏の中でもあったのだ。そこで佐渡島氏は、「であれば、新しく今時の学生たちの勉強法を取り入れられるようにする必要があるんじゃないか」ということで、現役東大生に編集の手伝いをしてもらう、という構想が生まれたのだそうだ。

 そこで集められた東大生グループは、「東龍門」という名前で活動することになり、そのグループのリーダーになったのが、「リアルドラゴン桜」である西岡さんだったわけである。

 西岡さんは、他の東大生たちと共に、逆転合格した東大生たちの勉強法をインタビュー・アンケート・リサーチをして、「ドラゴン桜2」の勉強法に反映させるという仕事を行なった。「ドラゴン桜」の影響もあり、逆転合格した東大生たちは、西岡さん以外にも東大内にも少ないながら存在していた。そういった学生にインタビューをして、アンケートを取り、その結果見えてきたものを三田紀房氏に報告し、作品に取り入れる。そういった流れを取り仕切ることになった。

 そしてそれが2021年には日曜劇場としてドラマ化し、その教育方面の監修者として、西岡さんは24歳という若さで抜擢されることとなった。

 「ドラゴン桜を通じて、多くの受験生の気持ちや悩みに触れることができました。それは自分にとって非常に貴重な経験でした」

コロナ禍をきっかけに立ち上げた「スマホ学園」

 2020年、新型コロナウイルスの流行により全国の学校が休校になった際、西岡さんは新たなプロジェクトを立ち上げる。

 「コロナで休校になったタイミングがあった」時、多くの学校が「休校の間、生徒にどのように学んで貰えばいいか」について、ノウハウなく、手をこまねいている状況だった。

 そんな状況を見て、西岡さんは東大生の仲間たちと「オンラインの配信授業をやったら面白いんじゃないか」と考え、「学校がなくても生徒が学校にいるかのように授業を受けられるスマホ学園」というサービスをYouTube上で開始した。

 東大生たちが無償でボランティアとして授業を行い、休校中の生徒に対して毎日オンライン生配信授業を配信する「スマホ学園」。このプロジェクトは大きな成功を収め、1万人のチャンネル登録者数になるぐらいの勢いになったという。この活動を通じて「東大生の中で、授業がべらぼうにうまい人や、面白い研究をしている人」との繋がりができたと西岡さんは語る。

 「スマホ学園は最初、純粋に困っている生徒たちの役に立ちたいという思いから始めました」と西岡さんは振り返る。しかし活動を続ける中で、それはより大きな可能性を秘めていることに気付いたという。

 「オンラインだからこそ、地方にいる生徒たちにも質の高い教育を提供できる。地理的な制約や経済的な壁を超えて、誰もが平等に学べる環境を作れるかもしれない」という気づきがあったのだ。

 また、東大生の教師たちも単に知識を教えるだけでなく、自身の経験や志望校を決めた理由、勉強の苦労話なども含めた「リアルな声」を届けることで、生徒たちに大きな影響を与えることがわかった。

 これが後の起業活動につながる重要な体験となった。「東大生はこんなにボランティア精神にあふれてて、自分たちがこういうことやりたいとか、何かこういう授業やったら面白いんじゃないかという熱意がすごいある」メンバーたちと一緒に起業したいという気持ちが芽生えたのだ。

株式会社カルペ・ディエム設立の経緯

 スマホ学園やドラゴン桜プロジェクトの経験を通じて、西岡さんは自分の会社を立ち上げることを決意する。

 西岡さんは起業に関して「会社を作ること自体に対してのリスクっていうのは全くない」と考えていた。それは、自己資金での運営を行う方針で、借り入れを一切行わないという姿勢を取っていたことが原因だったという。

 「僕の場合は借り入れも一切やってませんでしたし、自分の自己資金の中でやっていて。正直な話をすれば税金で持ってかれるぐらいだったら会社作ってやった方がいいという感覚もありましたね」と語る。

 西岡さんの起業は、自身が体験した挫折と成功、そして多くの学生との交流を通じて芽生えた「教育への情熱」が原動力となっていた。それは決して「起業したい」という漠然とした願望から始まったものではなく、具体的な課題を解決するための手段として選ばれた道だったのだ。

起業当初に掲げた教育分野でのビジョン

 起業にあたり、西岡さんの胸には明確なビジョンがあった。

 「東京大学があるのは知っているけど、地方部から東大・京大に行きたいとかっていうモチベーションはまずない。そもそも、いけるとも思ってないっていう人たちがいっぱいいる」という課題認識だ。

 特に西岡さんの周囲には「人口300人しかいない村出身で、そこから村を救うために東大に行きました」という友人などもいた。

 「そういう話を青森の高校生たちが聞いたら、俺もやってみよっかなって気になるんじゃないかな」と考えていた。地方格差を縮めるために、成功体験を聞くことができる環境を必要としていたのだ。

 しかし、そうした成功体験や可能性の話を聞く機会が地方の学生たちには限られている。

 そこで西岡さんは「マスメディアが取り上げないような、そういう面白い東大生の人たちっていうのを集めて、地方に届けるような活動がしたい」「ギャップがある状態からの合格を支援したい」と考えたという。

 「教育の質や情報へのアクセスは、住んでいる場所によって大きく左右されるべきではない」という信念のもと、西岡さんは全国の学校を巡り、講演や指導活動を展開していく。

 これが「リアルドラゴン桜プロジェクト」の始まりとなり、西岡さんの教育事業における原点となった。

新たなメディア「未来図」での発信活動

 西岡さんは今も多くの学生に「挑戦することの大切さ」「失敗を恐れない勇気」を伝え続けている。それは単なる受験のアドバイスを超えた、人生の哲学とも言えるものだ。

 今回未来図の編集長に就任したのも、情報格差を縮小し、受験でも挑戦しやすい風土を作ることを目的にしているからだという。

 「今の受験の流れは、完全に推薦受験にシフトしています。この推薦入試は、情報の不平等によって地方格差をかなり進めるんじゃないかという、大きな危惧があるんです。未来図での情報提供を通して、その格差を縮めていきたいと思っています」

 最後に西岡さんが今の学生に伝えたいメッセージを聞いた。

 「人には誰でも可能性がある。その芽を摘んでしまうのは、多くの場合『自分にはできない』という思い込み。そんな思い込みから解放されたとき、人は本当の意味で自由になり、成長し始めるんです」