みなさんは、最近「成長」していますか?
私が大学生の頃、ネット上で流行ったインターネット・ミームがありました。
それこそが「圧倒的成長」。
当時はベンチャーに入るとか、外資系の企業に入るとか、とにかく厳しそうな業界に入って、逆風の中で自己研鑽を積むことが良いとされていたのです。
そして、それをあげつらったのが「圧倒的成長」でした。
成長。確かに、「成長できた!」とか「成長したい!」とか聞くと、やる気があってポジティブで、なんだかポテンシャルがありそうな感じに見えます。
そして、優秀な学生たちがみんなこの言葉を吐いているのも事実です。
「成長」の波は、早期化の一途をたどっているようです。昨今加熱する中学受験もその余波ではないでしょうか。
「同世代の子どもよりも『成長』する必要がある」と親が固く信じているからこそ、塾漬け・受験漬けの管理体制が敷かれます。

しかし、AIの台頭によって、より見通しが不透明になってきた現代において、従来通りの「成長」はどれほどの価値を持つでしょうか?
今回は、変わり続ける社会の中で、改めて価値を見出すべきものについて考察します。
成長は「善のイデア」か?
成長、成長……と繰り返していると、なんだか意識が高くなりますし、何かやるべきことについて検討しているようで、自分のステージが高まったように錯覚します。ただ、成長とは結果及び手段であり、主軸は「成長したから何ができるようになったか」に置かれるべきでしょう。
それにも関わらず、「成長」を繰り返すことは、実力を養成しないどころか、下手をすれば必要なトレーニングから自分自身を遠ざけてしまう可能性すらあります。そうして実力に欠けているのに、視座だけは一人前に高い人々は、かつて「意識高い系」と呼ばれて冷笑の的になったものでした。
今ではすっかり死語となった「意識高い系」ですが、その特徴である「”成長”に重きを置く」ことは、今でも受け継がれているようです。
私は仕事柄、今でも数十人以上の現役東大生と会話する機会がありますが、彼らはしばしば「サークル/バイト/インターンの経験を通じて成長できた」とか、「難しい仕事を任せられて、成長の機会を与えてもらった」と述べます。彼らは、「成長」を肯定的に捉えており、可能であれば「成長」したいと考えているのでしょう。
ですが、実際には「成長」できたかどうかはあまり問題にはなりません。成長の定義がないからです。
短期的に見れば成長したとみなせても、観測期間を長くすれば成長幅も微々たるものになりますし、場合によっては実力が後退することもあり得ます。それに、全くの素人が100時間何かに打ち込んだ場合と、達人が100時間かけた場合では、全く成長度合いが異なるでしょう。成長とは、度合いで語られるべきであり、そのためには伸び率の定点観測が必要です。
さらに、何に向けて成長したいのかが明瞭でなければ意味がありません。
例えば、いま体重が80キロの人がいたとして、この人が100キロに増量した場合、これは「成長」でしょうか?
もしこの人がパリコレモデルとして非常にタイトなサイズ感の服を着こなしたいならば、成長とは言えないでしょう。一方で、この人が相撲取りとして活躍したいのであれば、20キロの増加は「圧倒的成長」というべきはず。
成長とは、どこを基準にして、どちらを正方向に定めるかによって、大きく定義が異なってしまうのです。
だからこそ、具体的な指標を伴わず「成長したい」とだけ呟く学生たちは、非常に危うい。
それに、これは時に呪いにもなります。『東大うつ』(西岡壱誠、ベストセラーズ)では、頑張っても頑張っても「平均」に届かず挫折してしまう東大生の姿が報じられました。実際には、その方自身も平均年収より上の「いい仕事」についていたのに、「東大生の平均」に勝てない現実が、その心を折ったのです。

『東大生はなぜコンサルを目指すのか』(レジ―、集英社)では、2000年代あたりから続く「成長しなければいけない」雰囲気を指摘し、半ば宗教めいた強制感に苛まれる可能性を論じています。
確かに、昨今注目を集める「ミニマリスト」などは、「成長」とは正反対の存在であるように見えます。彼らの存在自体が、成長文化に対するカウンターカルチャーであり、現代のヒッピーなのかもしれません。
受け継がれる思想
さて、現代の中学受験熱が異常に高まっていることは、周知のとおりでしょう。そして、中学受験に参入したいならば、最低でも3年半と300万円以上のお金がかかることも、ご存じの方が多いのでは。
おかげで1970年代の3倍近い受験率をたたき出し、首都圏に限れば2人に1人が受験を選択する時代になってしまいました。「それだけお金持ちが多く、教育投資をしているのだ」で済めばよいのですが、そうは問屋が卸しません。
現在まで受験現場の最前線に居続ける層とは、一定「社会的な成功者」であると考えられます。私が周囲の東大・早慶生に聞いてみた肌感覚をもってしても「月に数万~十数万の塾代や、数か月で100万単位がとんでいく留学費用も惜しくない。むしろ、それが子どものためになるならよい」と、答える家庭が恐らく大半を占めるのです。
そうした家庭の親御さんは、やはり自身も学歴社会の中で一定の結果を出し、社会でもそれ相応のふるまいをして、時には失敗したり挫折したりしながらも、「成長」により逆境を跳ね返して、昇進してきた方が多いはず。それだけの稼ぎをあげるならば、やはりそれなりの地位にいると考えるほうが自然です。
そして、この方々は、おそらく自らの経験をもってして、「人間は成長するものであるし、成長できる余地がある」と考えていらっしゃる。さらに言えば、自らが踏んできたルートにおいては「成長で乗り越えられる」と考えているでしょう。

これこそが、受験の熾烈化、すなわち「わが子を受験に送り出したがる親」の増加につながったのではないでしょうか。
成長を当たり前の文化として捉え、半ば義務的に、そして強制的に経験するものだと考えているからこそ、「成長機会の早期化」として受験熱が高まっているように見えるのです。
成長バブルの崩壊
しかし、AIの登場によってその価値は根底から揺らぎつつあります。勉強で得られるスキルをすっ飛ばし、「結果」だけを提示してくるAIは、学生からすればしばしば悪魔の誘惑のように見えるでしょう。
「今こんなに頑張らなくても、AIを使えばいいのに!」。学生たちからは、しばしばこんな愚痴が漏れ聞こえてきます。
先日の、とあるテレビのインタビューでは、「宿題でわからないところがあったら、親とAIのどちらに頼るか?」と聞かれた子どもが「AI!」と即答する様子が放映されていました。
もはや、「圧倒的成長」を遂げたはずである親世代ですら太刀打ちできない集合知の怪物と化しているAIに対して、私たちの「成長」はほとんど意味を成しません。こうなると、「成長教」の人々は、教義の合理性を見失ってしまいます。どんなに取り繕うとも、もはや人間が勝てる相手ではないのは明らかなのですから、そこの火消しは難しい。
ただし、機械による支配の時を待てと言いたいわけでもありません。
「成長教」の人々が絶望に陥るのは、彼らが唯一信じる神である「成長」にひびが入ったからでしょう。
他方、恐らくこれを悠々と眺める勢力がいます。ミニマリストです。
「モノを持たない暮らし」に端を発するこの集団は、昨今「やりたくないことは最低限」「やりたいことだけで楽しく暮らす」と概念的な拡張を済ませたようでした。つまり、多くのミニマリストにとって「仕事=最低限やるべきこと」であり、「それ以外の楽しめる軸」を設定している以上は、仕事現場での成長の意味が薄れてもノーダメージなのです。
ですが、ミニマリストの一人勝ちにもならないでしょう。成長の価値が薄れたとしても、「時間・体力資源の無制限供与」という形で会社組織に貢献を続ける「成長教」の人々は、おそらく成長の価値が暴落した世界でも、昇進しやすいように考えられるからです。
結局、彼らの描く「理想の暮らし」とは、今後数十年にわたって持続可能なものとは到底考えにくく、長くても数年、下手をすれば数か月のうちに崩壊する砂上の楼閣であり、期限付きのユートピアに過ぎないのでした。
「多元軸人間」になろう
とはいえ、その暮らしからヒントを得ることはできます。自らの幸福を測る評価軸を、仕事以外に設定することができれば、有事にも対応可能です。仕事にもいくらか割り振ったうえで、何か一つに依存しないような、いわば、幸福度の分散投資とでもいうべきライフスタイルこそが、今後期待されるのではないでしょうか。
そして、これは矛盾するようですが、分散投資の結果として、メインの投資先が移り変わるようなこともあるかもしれません。つまり、「仕事」に主軸を置きつつも、休日の「サイクリング」や「文筆業」に勤しんでいるうちに、書き物で仕事を得られるようになり、意識の中でライティングメインに切り替わっていく……ということです。

仕事を好きになる口実として自らの洗脳するのではなく、仕事抜きに好きだったものを仕事にできたのであれば、モチベーションも続くでしょうし、幸福度の管理もやりやすいはず。ただ、これひとつに的を絞るとリスクが高まりますから、よほど儲からない限りは兼業でいるべきでしょう。
また、学生や受験生の間でも、この態度は徐々に広まりつつあるのではないでしょうか。すなわち、「探求学習」です。
従来のペーパーテスト的な勉強とは婉曲的にしか関わりがないため、従来の「成長教」の人々からすれば、「成長につながらないただの機会損失」と見えるでしょう。しかし、これを機会損失とカウントするのは、あまりにもったいない。
もともと、金銭的・時間的な自由に乏しい学生にとって、社会の評価軸は「勉強」一本になりがちです。「部活」に軸を置く方もいるでしょうが、そこで結果を出して進学したり就職したりできるのは極僅か。
だからこそ、勉強のプレッシャーは親が考えているよりも重い。いまは親の役割を果たす大人たちも、かつては経験した重圧のはずですが、生活に余白が増して見渡せる範囲が広まった今となっては、「勉強の一元評価」がどれほど辛かったかを思い出せないはずです。
しかし、本来の勉強とは評価されるために行うものではなく、世界を見通すレンズを磨いて、自分の知らない世界の存在を知り、見えないものを見ようとして望遠鏡をのぞき込む好奇心を育てるための行いでしょう。
我々が「成長」したがるのも、元はといえば、人よりいい家に住んで、いいものを食べ、いい服を着たいからであり、それらが「幸せ」につながるから。
裏を返せば、成長の果てに幸せがないならば、その成長には価値がありません。
これまでならば、「そうはいっても受験があるから」と一蹴されてしまった暴論に過ぎませんでした。
ですが、今は違います。
自分が楽しいと感じるものに真面目に向き合って研究を続け、然るべき大学研究機関の門戸を叩けたならば、「推薦・総合型選抜」によって「結果」を出せる時代になりました。
もちろん、勉強は必要です。ただ、受験勉強の専門家になるほどの量は要りませんし、受験勉強それ自体にはさほどの意味はありません。せいぜい1年か2年もやれば十分で、それ以上受験勉強に時間をかけるのは、趣味の領域。合格を目的とした「成長」ならば、遅くとも高1から真面目にやれば足りるでしょう。
社会の求める「成長」ではなく、自分の求める「成長」に正直になれる時代は、すぐそこまで来ています。変わりつつある時代に対して、臨機応変に対応するならば、何よりも今から動き出すべきなのかもしれません。





.png&w=3840&q=75)

.png&w=3840&q=75)
.png&w=3840&q=75)





.png&w=828&q=75)
.png&w=828&q=75)
.png&w=828&q=75)
