「いじめ」について、みなさんはどのように考えていますか?もちろん「悪いこと」であり、「根絶しなければならないこと」であることは前提ですが、現場の先生に話を聞くと、どうも世間一般の考え方とは違う感覚を持っているのではないかと思われることが多いです。
今回は、地域の学校で30年以上働いているベテラン先生である鈴木先生(仮名)が、自分の目撃した衝撃的な「いじめ」についてお話ししていただきました。地域の教育困難校と呼ばれるような難しい学校で働いていた先生から、お話を伺っていきましょう。
「いじめ」の定義
「いじめ」。昨今教育の中でよく取り沙汰されるようになった、社会問題とも言うべき問題です。私は学校の教員として、この問題に対して何度か対応することがありました。今日はその経験を踏まえて、この問題についてみなさんにお話ししていきたいと思います。
まずそもそも、いじめとはどのような定義なのか?
「いじめ」について辞書などで調べると大抵、「弱い立場の者を、肉体的または精神的に苦しめること」という内容が記されています。字面で見れば許されない行為であり、端的に「良くないことだよね」と皆さん思うでしょう。
実際日々メディア等を眺めていると、ある行為を「いじめ」という言葉で表した際に、それが絶対悪であるかのように取り扱い、受け手も同様のイメージを喚起しているようです。
一方、国が定めた「いじめ防止対策推進法」では、第2条においてこう記されています。
「児童等に対して、当該児童等が在籍する学校に在籍している等当該児童等と一定の人的関係にある他の児童等が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものを含む。)であって、当該行為の対象となった児童等が心身の苦痛を感じているものをいう。」
このように条文化されていて、「心身の苦痛」が重要なファクターであると定義づけられています。
身体の場合は傷跡などはっきりとわかる証拠がわかりますが、心で感ずる苦痛を数量として計測できませんので、ある事象を「いじめ」と認定するトリガーは、被害者とされる側の主観的な感覚に委ねられることになります。
「いじめ」は無くせるのか?
この「被害者の主観」を起点とするならば、いじめを社会から完全になくす、という目標は、現実的には不可能なのではないか?という問いが浮かび上がります。なぜなら、人間の感情は一人ひとり異なり、ある言動を「親しい者同士の冗談」や「じゃれ合い」と受け取る人もいれば、同じ言動に深い苦痛を感じる人もいるからです。たとえ加害者側に明確な悪意がなく、「からかい」や「冗談」のつもりであったとしても、受け手が「心身の苦痛」を感じた時点で、法律上の「いじめ」は成立し得ます。
この点を裏付けるのが、文部科学省が毎年公表しているいじめの認知件数です。
例えば、令和4年度の小・中・高等学校及び特別支援学校におけるいじめの認知件数は68万1948件と過去最多を更新し続けています。この数字の増加は、必ずしも「悪質ないじめが増加した」ことだけを意味するわけではありません。
むしろ、「いじめ防止対策推進法」の施行以降、学校現場がささいなきっかけでも積極的に認知し、早期対応に努めるようになった結果、これまで見過ごされてきた、あるいは「いじめではない」と判断されてきたような、被害者の主観的な苦痛が数字として表れるようになった側面が大きいと考えられます。つまり、法律が被害者の主観を重視する限り、認知件数がゼロになることは想定し難いのです。
だとすれば、私たちが目指すべきは「いじめの認知件数ゼロ」という非現実的な目標ではなく、むしろ別の視座が必要になるのではないでしょうか。
一つ目は、子どもたちが「つらい」と感じたときに、いつでも、安心して声を上げられる環境を徹底的に整備すること。そして、その訴えを真摯に受け止め、迅速に対応する体制を社会全体で構築することです。
そして二つ目は、加害の意図がなかったとしても、自らの言動が他者を深く傷つけうるのだという想像力を、すべての子どもたちが育むための教育を徹底することです。「自分はそんなつもりじゃなかった」という言い分が、苦しんでいる相手の前では通用しないという、人間関係の根源的な非対称性を教える必要があります。
いじめ問題を「撲滅すべき絶対悪」として断罪するだけでは、この複雑な人間関係の機微を見過ごしてしまいます。重要なのは、個人の主観的な苦痛にどこまでも寄り添い、そのシグナルを見逃さず、関係性を修復していく地道な努力と、そのための社会全体の体制づくりにあると言えるでしょう。
いじめを「なくす」のではなく、「苦痛を感じた人が決して孤立しない社会」を目指すこと。それが、この問題に対するより現実的で誠実な向き合い方なのかもしれません。
……なんて、ここまで書いてきましたが、正直に言えば私自身理想論的色彩が強いと思っています。
現実と比較してみて
「子どもたちが「つらい」と感じたときに、いつでも、安心して声を上げられる環境を徹底的に整備すること。そして、その訴えを真摯に受け止め、迅速に対応する体制を社会全体で構築すること」。
確かに字面だけ取れば優しく美しい響きです。そしてなぜここまで社会が寄り添っていかなければならないのか。それは、「生命の安全確保」がつねに絶対的遵守事項として立ち上がってくるからです。もちろん私は、「生命が大切」という不変の真理を全否定するつもりはありません。
昔、私が担任をしていた学級で、こんなことがありました。
1人の男子生徒(ここでは生徒Aとします)がいました。彼は、他人への干渉がやや強い傾向がありました。「仲良くなりたい」という言葉を前提にして友人を遊びに誘ったり、授業中であっても私語を交わそうとしたり、金銭物品の貸借も、その返済を反故にしてしまうことも多くありました(自分が貸したものにも頓着がありません)。休み時間も相手の意向を無視して級友にじゃれつく、いわゆる「ダル絡み」の場面も多々見られました。そのたびごとに目にした私は、Aを呼んで、相手が嫌がっているかもしれないことを伝え、自制的になるよう指導していました。当時は幸いにもスマートフォンが普及していなかったため、SNSによるトラブルが無かったのが救いでした。
ここまで読むと生徒Aがいじめっ子になり、加害事案を起こしたのか、と思いたくなりますが、現実は逆でした。その学級は比較的まじめでおとなしい生徒が多かったのです。そして彼らは生徒Aを「授業中に邪魔をしてくる」「ダル絡みの多い面倒なヤツ」「自分勝手でルーズな人」と認定し、集団で無視する、陰口を繰り返す、集団の場で揶揄するようになったのです。
最初は自分の置かれた状況に気づかなかったAでしたが、周囲の嫌悪感が徐々にエスカレートしていく中で、学校を休みがちになっていきました。彼が休んだ日の朝のHRで、「今日は平和だなあ」という級友たちが醸し出す雰囲気は、字面だけ見れば異常ですが、現場に身を置いていた誰もが抗えない感覚があったことを忘れられません。もちろん担任として三者面談や家庭訪問も実施し登校の呼びかけをしました。その中で公共の場でのマナーを守っていく、それがA自身も安心して学校生活を送ることにつながると、説得も試みました。そのとき同席した保護者の発言に、少々違和感を覚えたこともありました、が、それは別のテーマの時に書きたいと思います。
その後Aが登校してきた際に、休み時間の級友との言い争いから喧嘩に発展してしまいました。腕力で勝るAは、軽傷ではありましたが相手に怪我を負わせてしまい、私は救急対応、保護者への連絡、校長への報告などの対応に追われました。周囲にいた級友に聴き取りも行いましたが、当然の如く「いつものダル絡みをしてきたAが悪い」という証言ばかりでした。
事件の翌日Aは学校を休み、私は怪我をした相手生徒の保護者対応をしていました。そこにAの保護者から電話がありました。Aが漂白剤を飲み自死を図ったようである、救急搬送され現在胃洗浄を含めた治療が行われている、といった内容でした(実際は極めて少量を含んだようで、命に別状はありませんでした)。
慌てて自宅に行くと、保護者は「Aはクラスのみんなから監視されていると言っていて、体内に盗聴器を仕掛けられたと言っていた。それを洗い流すつもりで漂白剤を飲んだと話している」といい、これは明白ないじめ事案だ、と詰め寄ってきました。この後の保護者対応も話せば長くなりますが、閑話休題になりかねませんのでここでは割愛します。
まだスマホが普及していなかった時代ではあったものの、それでもAの自殺未遂は燎原の火のように学級内に伝播しました。この時から、級友たちのAに対する態度は一変しました。命の危険に接触した友人への心配、そこまで追い詰められていたのか、可哀そう、という同情、追い詰めていたのは自分たちだったろうかという自問、それらを超えて重くのしかかってきた感情が「身近に自死を運んできた存在に対する畏怖」でした。「自分ではない。誰が最終的にそこまで追い詰めたのか」という犯人捜しも勃発しました。今思えば集団ヒステリーに近い状況だったかもしれません。
3週間ほど休んだ生徒Aは、表向き何もなかったようにクラスに復帰しました。事件の前のような、野放図なまでに他人に関わろうとする態度は見られなくなりました。大変な事件を経過しましたが、学級内にぎごちなくもどうにか再出発の空気が漂いだしました。
そんな中で、生徒ケアと再発防止のため私はAと面談を繰り返していました(当時はスクールカウンセラーも明確に存在していませんでした)、その何回目かの時にAが放った言葉です。
「自分が全て正しいとは思っていないけれど、クラスの連中が正義だとも思えない。彼らがやったことが『イジメ』になるように、自殺を演じようと思った。そうすれば自分の方が「正義」になる」
長々と思い出話を記してしまいましたが、こういうことは意外と全国の教育現場で起きているのではないでしょうか。
「生命の安全確保」という絶対的な正義を最優先するがゆえに、「自傷や自死の示唆が、状況をコントロールするための『カード』として使われかねない」という懸念。そして、それが「正義」としてまかり通ってしまうことへの違和感。この問題にどう向き合うべきか、私は未だ明確な回答を持ちえません
まとめ
「いじめ」という現象は、単純に「悪」と切り捨てるだけでは理解できない複雑さを持っています。辞書的な意味や法律上の定義に照らせば明らかに許されない行為ですが、その境界線は被害者の「主観的な苦痛」に大きく依存しており、認知件数がゼロになることはほとんどあり得ません。むしろ、法律や学校現場の仕組みによって「これまで見過ごされてきた小さなサイン」が数値化されるようになった結果、数字は増え続けています。
重要なのは、「ゼロ件」を目指す非現実的な理想ではなく、子どもがつらさを訴えたときに必ず受け止めてもらえる環境づくりと、加害の意図がなくても他者を傷つけ得るという想像力を養う教育です。また、現場で起きる事例のように、「加害者」と「被害者」の構図が一面的には語れない場合も少なくありません。時に「正義」と「加害」が入れ替わるような、人間関係の複雑さも存在します。
だからこそ私たちは、「いじめを根絶する」というスローガン以上に、「苦しんでいる子が孤立しない社会」を築くことを重視すべきでしょう。それは、理想論でありながらも、教育現場と社会全体が向かうべき現実的な指針でもあります。いじめをめぐる問題は、一度の解決策で終わるものではありません。子どもたちの声に耳を澄まし、関係性を修復し続ける不断の努力こそが、この問題に向き合う唯一の道なのだと思います。




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