「宗教系の大学で4年間も仏教を学んで、将来何に繋がるんですか?」

率直にそう聞いたのは、京都にある大谷大学 文学部 真宗学科の木越先生に対してだった。多くの高校生や保護者が抱くであろう、この素朴な疑問。

しかし先生の答えは、私たちの宗教学習に対する認識を根底から覆すものだった。

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「人間そのもの」を学ぶ唯一の学問

──まず率直にお聞きします。高校生から「仏教を学んで何になるの?」と聞かれたら、なんと答えますか?

木越教授(以下、木越):興味深い質問ですね。まず考えてみてください。中学校や高校で、私たちは何を学んでいるでしょうか?

社会科では社会の仕組みや歴史、ルール、経済を学びます。理科ではたとえば生命を生物学的に分析します。でも、「社会に出ていく人間そのもの」を学ぶ分野は実はないんです。

──確かに。人間を対象とした学問はありますが、「人間とは何か」を直接的に学ぶ機会はほとんどありませんね。

木越:そうなんです。結局、中学校や高校では「社会がどうなっているか」「世界はどんな成り立ちか」は勉強する一方で、その世界の中に出ていく人間そのものを勉強する機会はとても限られているわけですよね。

そういう人間という存在そのものについて考えるという学問は、哲学であったり、インドの仏教哲学であったり宗教であったりします。

今の正式な義務教育の中では、そういう教科は入っていませんが、必要だと私は思います。最初に人間というものについて考えないと、正しい社会もできないでしょうし、あるべき経済もできないんですよ。

視点を外に向けるのではなく内に向ける、まず人そのものに向けるというのは、その営み自体が非常に大切であるし面白いと思います。

キャンパス内にある「真宗総合研究所」

「答え」ではなく「問い」が書かれている

──でも多くの人は、聖書や仏典には「答え」が書いてあって、結局その通りにしなきゃいけないというイメージを持っているのでは?

木越:それは大きな誤解ですね。聖書もそうですし、仏典もそうですが、答えが書いてるわけじゃないんです。

例えば、聖書にはイエスの生涯や、イエスの言葉が書いてあるだけです。イスラム教の聖典コーランは、エピソードが長い順に並んでたりする。それをどう読んで、どう判断するかはそれぞれなんです。

親鸞なんて典型的ですけど、「私、親鸞はこういうふうに考えている」「親鸞はこういうふうな仏教を大事にしている」「皆さんもご自身で選んで下さい」というスタンスなんです。

もちろん中には、聖書に答えがあって、聖書の通り生きなくちゃいけないという考えの方もいます。親鸞が書いていたり、仏陀が言っていたら、その通りにやらないといけないと、それを答えだと思って考えている人もいますが、その考え方は教条主義的になってしまいます。

私たちが学んでいるのは、そこに書かれていることによって「自分に問いが生まれる」ということ。問いをもらうというのが、大きな特徴でしょうね。2000年以上の社会的評価とか批判とかをくぐってきた実績がある思想は、それが大きな問題提起になるんです。

──心理学も人間を扱いますが、どう違うのでしょうか?

木越:よく聞かれる質問ですが、やはり大きく違うのは視点ですね。心理学は人間が人間を見て分析する一方で、宗教の場合はやはり外部から人間を眺める視点になります。

キリスト教では神というものを持ち出しますし、仏教にはブッダがいます。いわゆる「外から人間を見る視点」を持っているんです。

キリスト教でも仏教でも、批判的な目で人間を見るということは共通していますよね。人間という存在をそのままでよしとしないという立場を、最初から持っています。キリスト教では原罪という概念があり、仏教の方では「我執」という「自分がいる・存在している」という執着自体が問題だと考える。

つまり仏教では、「私がこういうものとして存在している」というふうに考えること自体が、もう間違いだということなんです。思考は「自分が存在すること」が前提になっていますが、私という前提は、それはそもそもどこにあるのかということから始めます。

つまり、存在とか自己に対する批判的な視点がスタート地点なのです。そこがやはり心理学とは違う、宗教の伝統的な特徴ですね。

「真宗総合学術センター/響流館」の3階に設置された総合研究室

社会で活かされる「疑う力」の実例

──そうやって自分や人間を疑って考える力は、実際に社会でどう活かされるのでしょうか?

木越:面白いエピソードがあります。本学の卒業生で、大手の医薬品業者に就職した学生がいました。キャンペーン期間中に「この薬を売らなあかん」ということで、顧客の高齢の方にも多く販売するように指示があったそうなんです。

しかしこの卒業生は「これ効くのか?」とお年寄りに聞かれて不要だと思った際には、「おばあちゃんは水飲んで寝てれば治る」と追い返したりしたそうです。結局、必要じゃないものを売らなくちゃいけないことに疑問を持って、5年ぐらい勤めてからやめたんですけど。

──それって会社からしたら困る人材では...?

木越:でも、そういう人がいなくなった社会の方が危ういですよね。

会社がやれって言うからやらなくちゃしょうがない、やるべきことをやるというのもありです。でも、その時に「これは正しいのか」と思いながら疑問を持ってやるか、「儲かるからどんどんやろう」と本当は必要のないお客様からも売上をのばすことを気持ちよくやるのか、という違いがある。

仏教を学んだことに関係なく、本来はみんな人間だから疑問を持ちながら、こういう類の仕事をしているはず。しかし、慣れがあるとその感覚を失う個人・会社もあります。こういった学生を採用をする企業は、こういった点についてよく理解していると私は考えています。

企業も「人間にとっての本当の利益は何か」とか、「会社にとっての本当の利益は何か」、「本当に売るべきものは何か」という理念を持っている。それと現実がずれている時に、そこに問いを持つ学生を社会に出したいと思いますね。

木越康教授 / 大谷大学前学長

日本人の「無宗教」という大いなる勘違い

──日本人は無宗教の人が多いから、宗教系大学に抵抗がある印象があります。

木越:これも大きな誤解なんです。「無宗教」という言葉自体が、非常に日本的な現象なんですよ。

例えばアメリカ人が見たら、日本人はみんな仏教徒に見えます。では、なぜ無宗教だと日本人が認識しているのかは、江戸時代の寺請制度が関係しています。

当時は幕府の指導の下、日本人は全員どこか寺の檀家でした。つまりその当時の日本人は全員、仏教徒です。キリスト教徒ではない証明ということで、必ずどこかのお寺に所属させられていたんですね。

当然、制度上は仏教徒でない人がいないので「私は仏教徒です」と自己を紹介する必要が全くなかった。

このようにして、日本では宗教がアイデンティティの表現にならないので言わないという状況が生まれました。でも実際には、お盆やお正月におばあちゃん家に行ったら仏壇の前で手を合わせる。

「いただきます」で手を合わせるのも、宗教的な動作です。アメリカ人は何もしないで食べるでしょう。でも日本人は、みんなこうやって手を合わせる。ごく自然に、日本の風土の人たちはそうやっているわけです。

これは非常に宗教的な行為なんです。これを積極的に拒否して初めて、本当の意味での「無宗教」になる。でも、そんな人はほとんどいないでしょう。

だから、無宗教だと思っている人も全然いいんです。私たちの大学の学生も基礎的な授業で、仏教という宗教を思想・哲学として捉えると面白いって話で始めて、自分の宗教性について理解します。みんな「あ、そうか」と思って聞いているようなので、一般の方で無宗教だと勘違いする方が多いのは無理もないですね。

意外すぎる就職実態と学生像

──実際の就職状況や、どんなキャリアの方が多いのでしょうか?

木越:就職は、いたって普通ですね。もちろん学生で昔、「銀行の面接で、真宗学科って不利ですか?」と聞いてきた方もいました。でも、仏教の思想を研究してるということが不利に働くとは思わないんです。

銀行員もいるし、公務員もいる。意外性があるかもしれない企業では、オリエンタルランドに就職した学生もいますよ。それも、高校で宗教の先生をやってから、オリエンタルランドに再就職という、珍しいキャリアです。

これは私の予想ですが、面接で印象に残るということはあるんじゃないでしょうか。表面的には学べないですから、仏教って。きちんと勉強すれば、人間性が強く鍛えられると思いますね。

少なくとも、自分の頭で考える経験をしないと卒業ができないです。

──では最後に、どんな学生が向いているのでしょうか?

宗教を学ぶこの学科に向いている学生を考えると、やはり人間というものに対して、疑問を持っている子ですね。存在に対して何がしかの疑問や引っかかりを持っている学生は、授業の中で引っかかってくれるところがたくさんあって、リアクションペーパーなどで多くの質問を書いてくるんです。

社会に対する疑問はあっても、それが制度やルールではなくて、人間の存在そのものに対する疑問。やはり自分に対して、「なんでこんな行動をするのか」「なんでこんな感情を持つのか」ということを少しでも考えているというか。

例えば、不登校の経験がある子。登校を拒否する子はすごくよく分かるし、理解できます。登校を拒否するということは、やはり学校、制度、社会を拒否してるわけです。社会的に言うと、拒否してる子が悪いと考えられることも多いですが、仏教的に言うと実はそれが正しい場合もある。

何かを拒否しているということは、何か問題を感じるからでしょう。それぞれの事情に責任は持てないのであまり安易には言えませんけどね。

宗教は答えを押しつけるものではなく、問いを与える学問です。思想や哲学、そして宗教を学ぶことで、自分というもの・人間というものを見るきっかけを得てほしいですね。

大谷大学 京都/本部キャンパス