「政治って、一体何をしているんだろう?政治学って何を学ぶんだろう?」

選挙や国会中継を見て「なんだか遠い世界だな」と感じたことのある人も多いはず。

でも、政治学のプロフェッショナルに聞いてみると、どうやら“政治”はずっと私たちの身近なところで息づいているらしい。

「文化祭の出し物を決めるときにも政治はあるんです」と語るのは、政治哲学を専門にする蛭田圭准教授(早稲田大学政治経済学部)。

「政治って何?」「政治学と政治哲学ってどう違うの?」そんな疑問から始まり、研究に何年も向き合う覚悟や、社会に伝えるための本の書き方まで、先生にリアルに語っていただいた。


政治って、ほんとうに“遠いもの”なの?

――ずばり、政治って何ですか?

蛭田先生:

「政治」と聞いて多くの人がまず思い浮かべるのは、議会や、選挙、政党だと思います。しかし、「政治とは何か」を考えるためには、一旦そのイメージを忘れていただきたいです。というのは、議会・選挙・政党は政治のひとつのあり方ではありますが、政治そのものではないからです。

それでは改めて、政治とは何か。一般的に言えば、複数の人が集まって何かを一緒にしようとするときに、むき出しの暴力を使わずに問題を解決・調停する営みが政治だと言えます。

――なるほど、むき出しの暴力を使わない。

蛭田先生:

たとえば、高校の文化祭。クラスで出し物を決めようとしたとき、意見が分かれますよね。そこでどうするか。

案を出し合って、話し合って、必要であれば投票をして、みんなで決めるでしょう。その後、予算を配分したり、道具を買う人を決めたりして、計画を実行に移していきます。

このとき、みんな等しく満足だというわけではないと思います。自分の案が採用されなかったり、気の進まない役割にあたってしまう人もいるでしょう。

しかし、だからといって、クラスメートを殴ったりはしないですよね。暴力を使わずに、一応の解決・調停までもっていきます。このようにして一緒に問題に取り組むとき、人は政治に携わっているんです。

――意外と、誰でも日常的にやっていることですね。

蛭田先生:

そうです。もっと身近なところで言えば、家庭の中にも政治はあります。

――家庭の中にも、ですか?

蛭田先生:

例えば共働きの家庭で、両親ともに忙しい日に、幼い子どもを誰が迎えに行くかという問題が起きたとします。どちらも相手に任せたいと思っている状況で、どちらかが行かなければなりません。夫婦で話し合って、お互い納得できる形で「今日は自分が行くよ」と決められれば理想的ですが、そうもいかないこともあります。

そんなとき、夫が「自分の方が収入が高いんだから」とほのめかせて、優位に交渉を進めようとするかもしれません。政治学の言葉では「権力」の行使ですが、これも正真正銘の政治的な駆け引きです。

もし一方が相手を殴るなど、力づくで従わせてしまったら、それはもう政治ではありません。暴力を使ったら、その瞬間に政治は終わります。逆に暴力ではない形で自分の優位を示しながら交渉するのは、政治の範疇に入ります。

要するに、物理的な暴力を使わずに、折り合いをつけようとする行為そのものが政治なんですね。ですから、家庭や親子の間にも当然政治は存在します。

ーーこんなに身近な場所にあるんですね。

そうなんです。多くの人が政治を難しく感じる一因は、国政のような遠くにある政治をすぐに思い浮かべてしまうからだと思います。でも、日常にある政治にまずは目を向けた上で、その延長線上に議会や、選挙、政党があると考えていけば、「政治って案外自分と遠いものじゃないんだな」と分かるはずです。


政治哲学って、何をしている分野?

――先生の専門は「政治哲学」や「政治思想」ですが、これは「政治学」とどう違うんですか?

蛭田先生:

確かにまぎらわしいですよね。

まずはじめに、政治哲学は文字どおり、“政治学”と“哲学”が重なる領域です。私自身も博士号は政治学科で取得しましたが、哲学科で教えていた時期もありますし、今は政治学科に所属しています。

その上で、政治学の「広い意味」と「狭い意味」を区別したいと思います。

広い意味での政治学というのは、政治に関するあらゆる現象を体系的に学ぶ学問のことです。この意味での政治学にはとても長い歴史があります。

それに対し20世紀、特に戦後になって、自然科学の手法を政治分析に応用する、新しい政治学が急速に発展しました。統計や実験などを用い、可能な限り数値化して研究を進める、「狭い意味での政治学」です。

――いわゆる「科学としての政治学」ですね。

蛭田先生:

そのとおりです。私が所属する早稲田大学はこの分野にとても力を入れていて、素晴らしい研究者がたくさん在籍しています。

とはいえ、政治をめぐる問いの中には、科学では解明できないものもあります。大きく言うと二つの種類の問いがあって、ひとつは「意味をめぐる問い」です。例えば、政治とは何か、権力とは何か、国家とは何かといった問いが挙げられます。

もうひとつは「よしあしの問い」、つまり規範的な問題です。たとえば、民主主義は本当に良い制度なのか。あるいは、戦争は一般的に悪いとされていますが、全ての戦争が同程度に悪いのか。必要悪として武力行使が正当化される場合もあるのではないか。また、そうだとするならば、どういった条件が満たされたときに、武力行使が正当化されるのか。

他にも挙げたらキリがありませんが、こうした問いに対しては、科学の方法では決着がつきません。そういう部分を担っているのが、政治哲学や政治思想というわけです。

――なるほど。「広い政治学」から「狭い政治学」を引いた“残りの部分”が、政治哲学の担当領域になると。

蛭田先生:

そういうことです。


「答えが出ない」ことに向き合う力

――正解が出ない問いに向き合い続けるのは、大変じゃないですか?

蛭田先生:

たしかに政治哲学では、“すべての人が納得する唯一の正解”を出せないことが多いです。けれども、それが欠点だとは考えていません。時には、一つの正解がないことを確認することが大切な場合もあります。

――えっ、それでいいんですか?

蛭田先生:

はい。政治哲学の目的の一つは、「この意見は論理が破綻している」、「前提がおかしい」といった具合に、明らかに説得力を欠いた答えを見つけ出し、それらを取り除くことにあります。そこまでであれば、多くの人が同意できます。

しかし、そうした作業をした結果、有力な答えが複数残ることもあります。そのとき、それぞれの答えに一定の説得力があることをきちっと認め、拙速な判断をしないようにうながすことも、政治哲学の役割です。

この場合、有力な選択肢を複数示し、その他の選択肢よりもそれらが優れていると示せれば、十分に役割を果たしていると考えます。

ーーなるほど、選択肢を絞るだけでも価値があると。

そうです。もちろんこの態度に、「なんだかスッキリしない」と感じる人もいて、そういう人は科学的な政治学のほうに魅力を感じるかもしれません。一つの明確な答えが出るほうが安心ですからね。

しかし実際、政治に限らず人間にとって重要な問いのなかには、一つの正解が出せないものも数多くあります。

――「科学的な答えが出ないこと」に挑むこと自体に意味があるんですね。

蛭田先生:

身近な例を挙げると分かりやすいと思います。

たとえば「どの大学を志望すべきか」、「どんなキャリアを選ぶべきか」。これらは科学的な指標だけでは決まりませんよね。

――たしかに、年収データだけで進路を決める人って、あまりいません。

蛭田先生:

年収が高い=正しいキャリアとは限りませんから。もちろん、生涯年収についてのデータがあれば参考にはなります。でも、データが自分に代わって価値判断をしてくれるわけではありません。

「一つの正解がないのだったら、どの答えでも一緒なんだろう」と思い込んでサジを投げるのではなく、「一つの正解がなくても、まだマシな答えにたどり着けるよう、粘り強く考えよう」というのが、政治哲学の根底にある発想です。


研究って、どれくらい時間がかかるの?

――ひとつの問いに答えるのに、どれくらい時間かかるんですか?

蛭田先生:

場合によりますが、私がこれまでで一番苦労したものでは、35ページ程度の文章を書くのに、6〜7年かかったことがあります。たった一章を書くために、バックグラウンドリーディングだけで何年もかけることもあります。

――ひとつの問いに何年も……それは、なかなか想像がつきません。

蛭田先生:

もちろん、半年〜1年くらいで書ける論文もあります。でも、研究は「自分の直感的なアイディアがどこまで当たっているか」を確かめていくプロセスで、思っていたよりずっと深く掘る必要が出てくることも少なくありません。

あとは年齢を重ねると、自分に残された時間も気になります。例えば定年まで15年なら、小さめのテーマを次々こなせば3冊の本を書けるかもしれないし、大きなテーマを選べば1冊になるかもしれない。

残りの研究人生で何をどこまで成し遂げたいか——答えの出ない問いですが、そこを考えて決めるわけです。研究にはとにかく時間がかかりますから、最終的には後悔のないよう決断するしかないですね。

「誰に向けて書くのか」で、研究は変わる

――先生は研究成果を社会に発信するうえで、どんなことを大事にしていますか?

蛭田先生:

一番大切にしているのは、「誰に向けて書いているのか」を、しっかりと自覚することです。よく「インパクトがある研究」と言われますが、その“インパクト”が誰に対してのものなのか、ちゃんと考える必要があります。


学術的なインパクトというのは、同じ分野の専門家たちの間で「これは優れた研究だ」と評価されることです。だから学術論文は、読者が研究者である前提で書かれていて、一般の人に読まれることはあまり想定していません。

それに対し、「狭い世界で何をやっているんだ」と眉をひそめる人もいるかもしれません。でも、専門家同士での議論や検証の場がなければ、学問は廃れてしまいます。

――じゃあ、社会に向けた発信となると……?

蛭田先生:

その場合、多くの人に届く書き方で、新聞や雑誌などのメディアに文章を載せたり、一冊の本にまとめることもあります。

本は長いですが、書店で見かけて手に取ってくれる人もいます。だからこそ、専門的な内容をいかにわかりやすく、読み物としても面白く届けられるかが重要になります。

ーー先生は英語でのご著書が、イギリスやヨーロッパの権威ある学会賞にノミネートされただけでなく、『ウォール・ストリート・ジャーナル』で「今年の15冊」の1冊に選ばれたことがありますよね。

蛭田先生:

はい、ありがたいことに。その本はテーマ的に、研究者にも一般の読者にも関心を持ってもらえそうでしたので、両方の読者層を念頭に置いて執筆しました。出版社を決めるときも、広い読者層に届くノウハウを持ったプリンストン大学出版局に出版計画書を持っていきました。

――研究を「誰に伝えるか」で書き方も変わる、ということですね。

蛭田先生:

書き方も、媒体も、出版社も変わります。特に一般の読者に届けたい場合には、書き手の独りよがりにならないように、しかるべき言葉と構成で書くことを意識しています。そうやって、研究の成果を社会に還元できたらいいなと思っています。

複数言語に翻訳された蛭田先生のご著書

成績がいい=研究者向き、とは限らない?

――最後に、これから政治や社会科学を学びたいと考えている高校生に向けて、何かアドバイスをいただけますか?

蛭田先生:

そうですね。大学での学問・研究は、高校までの勉強とは違うという点を強調したいです。

高校までの教育は、基本的には“まんべんなく”できることが高く評価される設計だと思います。数学、英語、国語、社会、理科、どれもある程度の水準でこなし、また各教科ごとに、学習内容を偏りなくおさえることが高得点につながります。

でも、研究はそうではありません。むしろ“ひとつのことをどこまでも深く掘り下げる力”が求められます。

――「全部をそつなくこなす」タイプより、「これだけは誰にも負けない」タイプが向いていると?

蛭田先生:

そういう側面はあると感じます。もちろん、大学や大学院に進んでも、ある程度の広い知識や、一般的な学問の技術は求められます。たとえば政治哲学を専攻したい場合でも、最低限の“土台”として、「科学としての政治学」の基礎的な知識の習得はやはり必要です。

でも、そのハードルを越えたあとは、自分が選んだテーマの追求がもっとも重要になります。まんべんなく何でもできる人でも、関心が絞れないと大学では迷子になりがちです。逆に、高校までの成績が振るわなかった人でも、「このテーマだけは誰にも負けたくない」と思えるなら、優れた研究ができる可能性があります。

――研究って、やっぱり「好き」の気持ちが支えているんですね。

蛭田先生:
「好き」も含めた、執着心ですね。関心のあることを徹底的に探求したいという意志です。その意志がないと研究はできません。

大学4年間の学びも、何かを知りたいという好奇心があれば、より充実したものになります。逆に、自分が何に関心があるのかがわからないと、無為に4年間が過ぎてしまう可能性が高くなります。

ですので、これから大学に進む人たちには、関心をもてること、「もっと知りたい」と思えることを探すよう、お勧めしたいです。漠然とした疑問でもいいんです。

たとえば、「政治ってそもそも何なんだ」という問いも、はじめはふとした疑問かもしれませんが、追求すれば立派な研究テーマになります。「もやもやする」、「気になる」といった気持ちを大事にして、探求する楽しさを大学で体験してほしいと思います。